昨年の3月にも筑前いいづか雛のまつりをレポートいたしましたが、今回は「伊藤伝右衛門と白蓮展」にスポットをあててレポートいたします。
それでは、伊藤伝右衛門氏と白蓮夫人をご存知ない方の為に、簡単にどのような人物だったのかご紹介いたします。(『伊藤伝右衛門と白蓮展』の資料より一部抜粋)
伊藤伝右衛門氏は、万延元年(1860年)嘉穂郡大谷村幸袋に伝六、ヨシの長男として出生した。幼少の頃から魚の行商や川船の船頭などに従事し、苦労して成長した。が、石炭採掘に関する独特の勘と情熱で炭坑の開発に成功し、大正3年(1914年)には大正鉱業株式会社を設立。「筑豊御三家」と呼ばれる。貝島、麻生、安川と肩を並べて地場資本家となった。
その他、鉄道、銀行、電気事業の分野にも進出し、地元財界の重鎮となった伝右衛門氏は、教育面にも大いに情熱を注いだ。
嘉穂女学校(現県立嘉穂東高校)の土地、建物のすべてを寄付し、しかもその維持運営費を寄付し続けた。現在であれば、その金額は数億円にのぼると言われています。又、伊藤育英資金を創設し、地域の教育に貢献した。衆議院議員に就任し、遠賀川改修工事にも献身的な活動を続ける等、地元経済の発展・文化の振興に多くの足跡を残している。
そして昭和22年(1947年)享年87歳でこの世を去りました。
一方の、白蓮夫人こと柳原Y子さんは、明治18年(1885年)、東京麻布に伯爵柳原前光の次女として出生した。10歳の頃、一族の子爵北小路随光に預けられる。33年(1900年)、北小路家の嗣子(随光が女中に生ませた子供)資武と公卿のしきたりで添え合わされ有無なく結婚、長男を生むも5年後、離婚。
41年(1908年)、東洋英和女学校入学、佐々木信綱に師事し、「心の花」に短歌を発表し始める。44年(1911年)、再婚。伝右衛門52歳、白蓮27歳。『あかがね御殿』と呼ばれる大邸宅での、豪華な暮らし振りから、『筑紫の女王』と呼ばれる。
大正4年(1915年)、伝右衛門氏の援助の元、処女歌集『蹈絵』を出版。著者名を白蓮(信仰していた日蓮にちなむ)とのみ記す。この作品を皮切りに伝右衛門氏の援助の元、発刊した歌集は竹久夢二にすべての装偵を任せ、夢二の絵入、表紙は本皮やスウェード等、贅沢なつくりのものばかりでした。
昭和7年(1932年)に発表した戯曲「指鬘外道」をきっかけに宮崎龍介と出会う。それから二人の間に文通が始まる。伝右衛門氏に絶縁状を送りつけた後、紆余曲折の果て結婚成立。戦後、長男の戦死もあり、平和運動にも従事。36年(1961年)、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに、歌を詠む日を送る。そして42年(1967年)享年82歳でこの世を去りました。
「伊藤伝右衛門と白蓮展」には、白蓮夫人の着用した着物や伝右衛門氏が宮内庁に着て行ったと言われる燕尾服、白蓮夫人直筆の書簡、絶縁状の写し、「踏絵」「幻の華」「指鬘外道」(すべて竹久夢二の装慎、絵入り)等の初版本多数、大変貴重なものばかりが展示してありますので、是非とも足を運んでみてください。
取材を終え、レポートを作成するにあたり、伝右衛門氏と白蓮夫人についての資料を読みあさりました。伝右衛門氏がこの筑豊に残された数々の功績をより詳しく知る事ができ、貧しい時代を生き抜いてきた伝右衛門氏だからこそ、成し得ることの出来た偉業であると感じました。
また、白蓮夫人との10年間の結婚生活、その当時の時代背景、絶縁状にいたった経緯など、人によって様々な解釈があり、興味を抱かずにはいられませんでした。そしてまた、もっと2人の事を詳しく知りたいという衝動に駆られました。
「伊藤伝右衛門と白蓮展」に取材に行く前と、今とでは随分二人に対する見方が変わったように思います。みなさんも、沢山予備知識を詰め込んだ上で、見に行くとより感銘を受けると思いますよ。私はもう一度見に行くことにします。
筑前いいづか雛のまつり副委員長の有松さんは、『この展示会で、どうしても白蓮さんの影に隠れがちな、伊藤伝右衛門氏の偉大さを一人でも多くの方に知って頂きたい』と意気込みを語ってくださいました。
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”夢をうつつ うつつを夢と見る人の 思い出の日よ 美しくあれ” |
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